つまらないがつまる状態に…
先日、テレビドラマを見ていると、こんな場面がありました。仕事で疲れて帰ってきたご主人に奥さんが、今日の出来事を事細かに話しているのですが、ご主人は「あー」と返事はするものの、疲れていて聞く気にもなれず最後には「まったくくだらないなぁ・・・」と言ってさっさとお風呂に入ってしまうんです。もちろん奥さんはいい加減な返事だとわかっているのでイライラします。
そんなイライラした気持ちで、今度はゲームをしている子どもに「勉強しなさい!」と怒ります。子どもは今どうして勉強をしていないのか、なぜゲームをしているのか、一生懸命弁解をするわけですが、お母さんは話しを最後まで聞かずに「そんなくだらないことを言ってないで、勉強しなさい!」とまくしたてて、さっさと夕飯づくりをはじめます。ご主人も、奥さんも、子どもも、みんながイライラして気分も悪く、夕飯時はもちろん会話などはずまずに、ただテレビを見ながらもくもくと食べているだけ。
それを見ていて、私は昔の出来事を思い出しました。妻が知り合いから相談を受けて、私に意見を求めたときのことですが、その時も知り合いのご主人が「そんなつまんない話をするな」と、奥さんの話をよく聞かないということでした。
私はそのときに、妻に「つまんない、つまんない、って言っていると、いつかつまって爆発しちゃうよ」と話したのです。日常的な小さな不平不満不安など、家族のいろんな思いを「つまらない」「くだらない」ことだと放置放棄し続けると、つまらない状態がつまる状態に変わって、下水管や血管じゃないけど、大変な状態になってしまう。つまりに詰まって爆発してしまうよって・・・
誠意をもって話を聞く
家族って、いっしょに喜んだり、いっしょに怒ったり、いっしょに哀しんだり、いっしょに楽しんだりできる、最も身近で信頼し合っている人間関係でしょ。その中で起こる日常生活の喜怒哀楽を「つまらない」「くだらない」で阻害していると、いつしか気持ちは爆発しちゃって、日常生活破綻の原因になっていくのではないかと思うのです。
その出来事がささいなことでも、すごく大事なことでも、重要性を問わずに、妻である家族の出来事を、すべて誠意をもって最後まで話を聞いて、いつも一緒に相手の気持ちを共有することは、家族だからこそできることです。
そして、「つまらない」「くだらない」とはき捨てがちな出来事も、よく聞いてみると、そこにはすごく大切なことが隠されていたり、物事の真理が見えたり、相手の本当の気持ちが伝わったりするのです。
さきほどのテレビドラマの中でも、もしご主人が奥さんの話を心で受け止めて聞いていたら…、もしお母さんが子どもの言い訳を心で受け止めて聞いていたら…。もっとおいしい夕食が、楽しい会話が広がっていたかもしれません。
ご夫婦間でも、親子間でも、家族のささいな言葉や話を「つまらない」「くだらない」と打ち切ってしまう前に、最後まで聞いて一緒にその喜怒哀楽を感じてあげると、心の中の本当の声が、聞こえてくるかもしれません。
そんなご家庭には、きっと「家族崩壊」なんて言葉は無縁のことなのでしょう。
女の子らしく?
春の暖かい陽気に誘われて、久しぶりに電車に乗ったときのことです。私が座った席の前には、小学1?2年生くらいの女の子とお母さんが座っていました。女の子はずっとゲームに夢中で、お母さんがしゃべりかける言葉に「うん」とか「そう」とか、聞いているのか聞いていないのか、あいまいに答えていました。
車内は空いていたので、その女の子の姿勢もだんだんだらしなくなってきて、ゲームに疲れたのか手を上に伸ばして大きくのびをしました。するとお母さんが、「女の子なんだから、女の子らしく行儀よくしなさい」と注意をしているのです。お子さんのことをきちんとしつけているお母さんなんだな、と思ったのですが、女の子らしくという言葉が少し耳に残りました。
私の子供の頃は、「男は男らしく、女は女らしく」と、性別によって育て方がきっちりと分かれていた時代でした。「男は度胸、女は愛嬌」という格言のとおり、男は強くて勇ましくあるべきであり、女の人は男を立てて謙虚にいることが美しいと思われていたのです。
私はどちらかというと、そんな言葉には捉われずに、自由に思うがままに「自分らしく」「人間らしく」生きてきたような気がします。妻と結婚してからも共働きだったため、手が空いている方が台所仕事をしましたし、お互いの仕事も尊重し合っていました。男は台所に入るべからずという時代の中で、私と妻の間では当たり前のことも、周囲の人にはあまり理解されていなかったかもしれませんね。
認め尊重しあう社会
もともと男と女は、「性」が違うということは誰もが認め合わなければならないことです。大切なのは、お互いが性別の違う生命体なのだと認め尊重し、人間としてどう協力して社会を、幸福な生活を築いていくかということではないのかと思うのです。
だからこそ、男女が平等になった今だからこそ、身を挺して雄雄しく生きる姿に男らしさを感じ、微笑ましく和やかな初々しいはにかみに女らしさを感じる感性を大切にしたいと思うのです。
そして子供らしさの基本は、人間の保護本能を無条件で誘い出す、かわいい無邪気さではないでしょうか。電車に乗り合わせた女の子がお母さんに注意されて、お母さんに寄り添いながらごめんなさいと素直に謝る仕草は、天真爛漫な子供らしさ、愛らしさです。
女の子の愛らしい笑顔を見て、私は妻のはにかんだ笑顔を思い出しました。それは女性だからこそ醸し出せる美しいこころの有り様です。男の私にはとうてい出せる笑顔ではなさそうです。亡き妻のはにかんだ笑顔は、一人になった今となっては、寂しいときに明かりを灯してくれる太陽のようなものです。いつも鮮やかにこころによみがえります。