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おじいちゃんの他意無真心  第3回

おじいちゃんの他意無真心

2012年00月00日

がまんは、思いやり…。ずっと大事にしたいもの。

人を思う心は変わらない

人を思う心は変わらない

おじいちゃんの他意無真心(タイムマシン)と題してみなさんに読んでいただいたコラムも、早いものでもう5回目。第1回目から全国の方々に感想をもらい、私もみなさんの心のうちを聞くことができて、とてもありがたく思っています。
インターネットという便利なものがなければ、82才の佐野じいと、若い人たちの接点なんてないでしょう…、長生きはするものですな。このコラムを通して、私は題の通り「他意無真心(タイムマシン)」で未来に行ったような気がします。
私くらいの年になると、同じ世代が集まればすぐに「昔はよかったねぇ…」とはじまりますが…。たしかに豊かになりすぎた現代は、昔には無い良い面もたくさんあるし悪い面もあるでしょう。しかしどんな時代であっても、人が人を思う心のありさま は変わらないのだなあと、私はみなさんからの感想を読んで気づきました。
家族や大切な人への思いやりや感謝の気持ちなど、若い人たちも、家族の絆をしっかりと結んでいるのだと感じたのです。
私は愛情とか思いやりっていうのはすごく尊いもので、そんな尊いものほど壊れやすくて繊細なのだと思うのです。だからこそ、ほっておいちゃだめ。大切に育んだり、守ったり、大事にする必要があります。


まず親が手本に

まず親が手本に

子は親を映す鏡、といいますが、思いやりのある子を育てたいと思っているならば、まず親が手本になることです。思いやりとは、甘やかすことや、優しく接することではありません。時として、子供のやることに手を出したい気持ちをおさえて、じっと見守ってあげたり、時間がかかっても子供自身が答えを出すまで待ってあげたり、親にもがまんが必要なときがあるでしょう。がまんは思いやり。親も子もがまん することを身につけ実践することで、考える力や相手を思いやる気持ちを育てていくのです。
親だって、もともとは子供だったのですから、本来は子供の気持ちがわからない親なんていないと思います。自分が子供の頃だったときの気持ちを思い出せば、子供の心を知るヒントになるのではないでしょうか。
私には姪っ子がいますが、時々私の暮らしぶりをのぞきにきては、小さい頃の話しをします。姪っ子が小学生のころから、私は今みたいに、心のまま話しをしていたようで、「おじちゃんは昔から変わってないよね、小さいときは難しすぎて何を言っているのかよくわからなかったけど、今ならよくわかるよ、大事なことを言っていたんだね」と話してくれました。
大事なことは昔も今も変わらない。親と子の関係も、家族のきずなも。人間にとって尊いものは、今も昔もずっと変わらない、だからずっと大事にしなきゃいけないんですね。

物よりも、人間関係に愛着を持とうね。

人を思う心は変わらない

前の物は粗大ゴミに…

私は、カメラで風景や人を撮ることが昔からの趣味でした。放射線技師として働いていた職場には暗室があったので、撮った写真は自分で現像液を作って焼いていたくらいです。写真は数えきれないほどありましたね。妻が生きていた当時は、毎年旅行先の写真をもとに手作り年賀状をこしらえたりして。今はもうほとんど撮ることもあり ませんが、活躍したカメラはずっと手元に置いてあります。愛着があってどうも捨てきれないんですね。
他にも、妻との結婚式にいただいたときのちゃぶ台も、足を直し直し使っていますし、時計も、タンスも、家の中にあるものはほとんど、妻と昔から愛用していたもの ばかりです。よく人から、愛着があるんですね…と聞かれますが、たしかに愛着もあるし、特別に買い替えなくてもそれで用が足りるという考え方もあります。
でも、今の時代は物にもあまり愛着をもたないのか、世の中のニュースを見ていると、ペットだって飽きたら平気で捨てるし、新しい物がでてくれば、壊れていなくたって買い換えて、前の物は粗大ゴミになっちゃうんですね。
そんなとっかえひっかえの時代ですが、私は愛着って、どちらかというと物よりも人間関係での愛着の方がずっと大事じゃないかと思っています。



まず親が手本に

人間関係での愛着

人間関係が面倒だったり、相手が反発して自分と違う意見をもっているなんて、違う人間同士だから当たり前のことです。それだけに、嫌いになったら離れてしまうから、愛着をもつことが大事なんじゃないのかな。
何かの縁で出会ったわけで、そこから喜怒哀楽を共に培って愛着のある人間関係を築き上げられたら、と思います。愛着は、過程の中で、時間の中で育まれていくので、今日明日で生まれるものではありません。その人と過ごしたり接したりする中で愛着 がわいてくるわけで、それは家庭だけじゃなく、学校だって職場だって友人同士だって、いろんな人と人との愛着が生まれて当然なんです。

そう考えたら、物よりも人間。人間関係に愛着をもてる生き方ができたら、物がこの世の中から消えても、心が残っているから、さびしくないし、充分しあわせなんじゃないのかな。
妻との思い出の物は色々ありますが、82才になった今でも鮮明に思い出されるのは、物ではなくて妻との会話、妻との喜怒哀楽の人生です。
私も、これから出会う人たちと、愛着をもって人生過ごしていきたいと願っています。


おじいちゃんからみなさんへ


おじいちゃんの他意無真心 第2回

おじいちゃんの他意無真心

2012年00月00日

一億円は一円の一億枚。ひと粒のささやき「もったいない」

エコロジーな生活とは

エコロジーな生活とは

旬の食べ物が出始めて、食卓にも春を感じます。普段あまり買い物に出かける方で はないのですが、生活用品を買いに近くの店に出かけたときのことです。会計を待っていると、「レジ袋を使いますか?」と聞かれました。私は財布しか持っていなかったのでレジ袋をいただきましたが、今は「エコバック」というものがあるそうです。持っていくとお店によっては数円差し引いてくれたり、スタンプを押してくれたりするんですね。
そういえば、昔は妻も、買い物に行くときは、竹でできた買い物かごをもって商店街を歩くのが当たり前でした。酒やビールの瓶を酒屋へ持って行けばお金にかえてくれるし、豆腐屋にはアルミのなべを持って買いに行ったものです。
エコバックという言葉に新しさを感じましたが、あれこれ考えてみると、なんてことはない、あの買い物かごも今でいうエコバックで、生活のちょっとした工夫は、昔の当たり前の生活習慣に戻ろうとしている気がします。エコロジーな生活とは、小さ なこと一つひとつの積み重ねが大切で、それは一億円が一円の一億枚でできていることに気づくようなもの。一円を大切にする心が必要なのかもしれません。

エコという言葉と一緒に、もったいないという言葉も最近耳にしますが、昔はよく「もったいない」という言葉を使ったものです。着るものも、食べるものも、学用品も、全てが「もったいない」というのが原点でしたから、新しいものはなかなか手に入らないのが当たり前でした。欲しいという欲望も「もったいない」という言葉には勝てなかったのです。



懇親会幹事を決める

食は心も満たす

今は暴食の時代で、好きなものを好きなときにいつでも食べられます。それでも日本の国内自給率は低く、最近の小麦粉不足や大豆不足を耳にすると、私はひもじかった時代を思い出してしまいます。みなさんは、ひもじいなんて思ったことはないでしょうし、その言葉すら知らないかもしれません。
ひもじい時代は、食べ物がないから腹がいっぱいになるまで食べることができず、いつも空腹でした。だからこそ、食べ物のありがたみは子供の頃から体に染み付いていました。
食べ物でお腹が満たされると、同時に心も満たされて、元気になる。食が満たされると体が(持)つ。でも、食べ物が無ければ(体)は持たずに(無)くなってしまいます。
もったいないは持・体・無。そんな風に、佐野じぃの言葉遊びで考えてみました。
人は食欲を満たしてくれる食べ物に対して「もったいない」という気持ちで頂くことが大切なのかもしれません。食物は自然からの供与、大いなる恩恵です。おそれおおい、かたじけないという気持ちが「もったいない」という言葉にあらわされているのでしょう。
さてさて、確かに、もったいないことばかりしていると、体が持た無いです。「もったいない」は命を継ぐ言葉ですね。お茶碗についた米粒を一つ残さずきれいに食べてごらんなさい。お皿に盛った料理を残さずきれいに食べてごらんなさい。きっと気持ちがいいと思いますよ。

一家団欒に託された、人々の夢と未来。

子育ては最優先事業

子育ては最優先事業

梅雨入りとなり、日ごとに気温が変わりやすい季節になりました。時々、天気の良い日は近所を散歩しながら、街や自然の小さな発見を楽しんでいます。
通り道にはちょうどいい休憩場所の公園があって、そこは10時を過ぎると、小さなお子さんを連れたお母さんたちがどこからともなく集まってきて、砂場でいっしょに遊んだり、お母さん同士で話しを始めたりと少しずつにぎわってきます。
昨今のお母さんたちはパートをしたり、正社員で働いたりと忙しそうです。お母さんたちの環境も人それぞれなのでしょう。とはいっても、今も昔も社会の基本単位は 家庭で、そこから社会は始まっていると思うのです。
子育ても、やがて社会に旅立つ資源の一人を育てているのですし、社会で働いているお父さんは家族に支えられている。家庭は社会の中でも大きな存在です。
私は子を産み育てることが、社会・国家を存続する上で、どのような事業よりも優先しなければならない事業と信じています。人がいなければ事業はおろか、社会も国家も成り立たないからです。だから子育てをしながら家庭教育を担っているお母さんには、その働きにふさわしい報酬を与えられるべきで、そのようなしくみがあれば、幸福な家庭が、そして社会がつくられるのではないかと考えます。



一家団欒

夢は「一家団欒」でした

あるお母さんが、以前私にこんなことを相談してきました。「仕事で忙しかったから、昔から息子が欲しいというものはいつも与えてきて不自由をさせなかった。なのにどうして非行にはしってしまうのか…」と。私はお母さんに伝えました。それは両親の愛情を金銭的なものでは与えてきたけれど、子供にがまんする心を教えることを 忘れていたのではないのでしょうか…、と。
がまんができなければ、人間は自分本位な生き方になり、相手を思いやったり、節度をもつことを忘れてしまいます。心の教育ができるのは、家庭であり、一家団欒の場なのではないでしょうか。
喜怒哀楽をぶつけ合って、それでも助け合っていくのが家族です。子供が悩みを抱えたら、それを親に打ち明けられる団欒の場=家庭があれば、子供はそこから強く生きていけます。
戦後の高度経済成長期、人間の共通した生き方、夢は、「一家団欒」でした。誰もが一家団欒を目指してがむしゃらに働いてきた時代が確かにありました。一家団欒こそが日本人の幸せの象徴だったのです。
若い人の中には、一家団欒という言葉すら知らない人もいます。子供が一家団欒を体験できないほど、お父さんもお母さんも忙しい時代なのでしょうか。
私の幸せは、一家団欒の日々を重ねて、天寿を全うし、愛する家族に見送られて、妻と始めた一会一緒の旅に出て立つ生涯と、さらにその旅を続けるのが私にとって、生死一如の幸せなのです。
一家団欒が夢です、と答えるのも恥ずかしいのかもしれませんが、一人ひとりの夢を実現するためにも、あたたかい家庭、喜怒哀楽を共にできる家庭の建設はいつの時代も大事で、社会的幸福の基となるものと確信しています。

>>がまんは思いやり…ずっと大事にしたいもの


おじいちゃんの他意無真心 第1回

おじいちゃんの他意無真心

2012年00月00日

「つまらない」「くだらない」を大事にすれば大事にならぬ

つまらないがつまる状態に…

つまらないがつまる状態に…

先日、テレビドラマを見ていると、こんな場面がありました。仕事で疲れて帰ってきたご主人に奥さんが、今日の出来事を事細かに話しているのですが、ご主人は「あー」と返事はするものの、疲れていて聞く気にもなれず最後には「まったくくだらないなぁ・・・」と言ってさっさとお風呂に入ってしまうんです。もちろん奥さんはいい加減な返事だとわかっているのでイライラします。
そんなイライラした気持ちで、今度はゲームをしている子どもに「勉強しなさい!」と怒ります。子どもは今どうして勉強をしていないのか、なぜゲームをしているのか、一生懸命弁解をするわけですが、お母さんは話しを最後まで聞かずに「そんなくだらないことを言ってないで、勉強しなさい!」とまくしたてて、さっさと夕飯づくりをはじめます。ご主人も、奥さんも、子どもも、みんながイライラして気分も悪く、夕飯時はもちろん会話などはずまずに、ただテレビを見ながらもくもくと食べているだけ。

それを見ていて、私は昔の出来事を思い出しました。妻が知り合いから相談を受けて、私に意見を求めたときのことですが、その時も知り合いのご主人が「そんなつまんない話をするな」と、奥さんの話をよく聞かないということでした。
私はそのときに、妻に「つまんない、つまんない、って言っていると、いつかつまって爆発しちゃうよ」と話したのです。日常的な小さな不平不満不安など、家族のいろんな思いを「つまらない」「くだらない」ことだと放置放棄し続けると、つまらない状態がつまる状態に変わって、下水管や血管じゃないけど、大変な状態になってしまう。つまりに詰まって爆発してしまうよって・・・



誠意をもって話を聞く

誠意をもって話を聞く

家族って、いっしょに喜んだり、いっしょに怒ったり、いっしょに哀しんだり、いっしょに楽しんだりできる、最も身近で信頼し合っている人間関係でしょ。その中で起こる日常生活の喜怒哀楽を「つまらない」「くだらない」で阻害していると、いつしか気持ちは爆発しちゃって、日常生活破綻の原因になっていくのではないかと思うのです。
その出来事がささいなことでも、すごく大事なことでも、重要性を問わずに、妻である家族の出来事を、すべて誠意をもって最後まで話を聞いて、いつも一緒に相手の気持ちを共有することは、家族だからこそできることです。
そして、「つまらない」「くだらない」とはき捨てがちな出来事も、よく聞いてみると、そこにはすごく大切なことが隠されていたり、物事の真理が見えたり、相手の本当の気持ちが伝わったりするのです。
さきほどのテレビドラマの中でも、もしご主人が奥さんの話を心で受け止めて聞いていたら…、もしお母さんが子どもの言い訳を心で受け止めて聞いていたら…。もっとおいしい夕食が、楽しい会話が広がっていたかもしれません。
ご夫婦間でも、親子間でも、家族のささいな言葉や話を「つまらない」「くだらない」と打ち切ってしまう前に、最後まで聞いて一緒にその喜怒哀楽を感じてあげると、心の中の本当の声が、聞こえてくるかもしれません。
そんなご家庭には、きっと「家族崩壊」なんて言葉は無縁のことなのでしょう。

犬や猫でなく猿でもない。人間として、男・女・子供…自分らしく

女の子らしく?

女の子らしく?

春の暖かい陽気に誘われて、久しぶりに電車に乗ったときのことです。私が座った席の前には、小学1?2年生くらいの女の子とお母さんが座っていました。女の子はずっとゲームに夢中で、お母さんがしゃべりかける言葉に「うん」とか「そう」とか、聞いているのか聞いていないのか、あいまいに答えていました。
車内は空いていたので、その女の子の姿勢もだんだんだらしなくなってきて、ゲームに疲れたのか手を上に伸ばして大きくのびをしました。するとお母さんが、「女の子なんだから、女の子らしく行儀よくしなさい」と注意をしているのです。お子さんのことをきちんとしつけているお母さんなんだな、と思ったのですが、女の子らしくという言葉が少し耳に残りました。
私の子供の頃は、「男は男らしく、女は女らしく」と、性別によって育て方がきっちりと分かれていた時代でした。「男は度胸、女は愛嬌」という格言のとおり、男は強くて勇ましくあるべきであり、女の人は男を立てて謙虚にいることが美しいと思われていたのです。
私はどちらかというと、そんな言葉には捉われずに、自由に思うがままに「自分らしく」「人間らしく」生きてきたような気がします。妻と結婚してからも共働きだったため、手が空いている方が台所仕事をしましたし、お互いの仕事も尊重し合っていました。男は台所に入るべからずという時代の中で、私と妻の間では当たり前のことも、周囲の人にはあまり理解されていなかったかもしれませんね。



女の子の愛らしい笑顔

認め尊重しあう社会

もともと男と女は、「性」が違うということは誰もが認め合わなければならないことです。大切なのは、お互いが性別の違う生命体なのだと認め尊重し、人間としてどう協力して社会を、幸福な生活を築いていくかということではないのかと思うのです。
だからこそ、男女が平等になった今だからこそ、身を挺して雄雄しく生きる姿に男らしさを感じ、微笑ましく和やかな初々しいはにかみに女らしさを感じる感性を大切にしたいと思うのです。
そして子供らしさの基本は、人間の保護本能を無条件で誘い出す、かわいい無邪気さではないでしょうか。電車に乗り合わせた女の子がお母さんに注意されて、お母さんに寄り添いながらごめんなさいと素直に謝る仕草は、天真爛漫な子供らしさ、愛らしさです。
女の子の愛らしい笑顔を見て、私は妻のはにかんだ笑顔を思い出しました。それは女性だからこそ醸し出せる美しいこころの有り様です。男の私にはとうてい出せる笑顔ではなさそうです。亡き妻のはにかんだ笑顔は、一人になった今となっては、寂しいときに明かりを灯してくれる太陽のようなものです。いつも鮮やかにこころによみがえります。


>>一億円は一円の一億枚